「整う」を考える

最近、「整う」という言葉をよく耳にする。

サウナの流行とともに広まったこの言葉には、ただ汗をかいてスッキリする以上の意味があるように思う。心と身体の輪郭が、ほんの少しはっきりするような感覚。僕はそれを、日常の中でも探すようになった。

たとえば、早朝に目が覚めて、まだ誰も起きていない静かな台所でコーヒーを淹れる時間。湯気が立ちのぼるマグカップの向こうで、少しずつ目が覚めていくような感覚。整う、とはこういうことかもしれないと思った。

人それぞれ、“整う瞬間”は違う。誰かと笑い合っているとき。部屋を片付けて机に向かうとき。音楽を聴きながら歩く帰り道。身体だけでなく、感情や思考が一列に並び始めるような瞬間だ。

一方で、整うという状態は、いつまでも長続きするものではない。むしろ、乱れたり、崩れたりしたからこそ、また整えようとする力が生まれる。そんなふうに、僕たちは日々、崩れたり整ったりを繰り返しながら生きている。

“整っている自分”でいることが目標ではなく、“整えようとする意識”こそが大切なのかもしれない。部屋も、身体も、心も。完璧じゃなくていい。でも、少しずつでも、自分の輪郭が見えてくると、暮らしは少しだけ軽くなる。

今、僕にとって整うとは、「気持ちの居場所を見つけること」。それは決して大げさなことじゃなく、ほんの些細な習慣の中にある。